昭和44年10月18日 月次祭
御理解 第60節
「おかげは受け徳、受け勝ち。」
というのがございます。おかげは受け勝ち受け徳である。おかげは頂き儲けだという風に聞こえますけれども、そういう事ではないなと。私はそれを信心をさせて頂いて結局徳を受けたものが勝ちだという風に言われております。御徳を受けたものが勝ちなんです。人から馬鹿と言われても阿呆と言われても、それが御徳を頂いていく道であるならば、それを甘んじて受ける、いや有り難く受けていくという生き方なんです。ね。人からどう言われてもいい。
今日、今高芝さんが日田の方で、ご親戚のお店を預かって、夫婦でそこをやっておられます。大変な忙しい、夜も無からなければ、昼も無いというような、お店の進出上そういうようなお店ですから、お参りをしてくる時間が無い。辛うじて、お父さんの方が昼の時間を見通してから、毎日お参りをして来ておりますけれども、お母さんの方はなかなかお参りが出来ない。
さあ、まあ商売だから、自分も商売人に小さい時から育っておられるのだから、どんな商売でも、まあやれれると思うとるところに、この商売だけはなかなかやはり難しい。同時に、いくら親戚とはいうても従兄妹さん。しかも従兄妹さんが社長で、その、今度新しく開かれた店を受け持ってやられる。それで社長さんが、新しい店ですから、やはりまあいつも言うておって、まあ監督をしておられると。
もう気を抜く暇が無い。いき抜く暇が無い。もうへとへとに、まあ疲れてある。どうしてこんな事を引き受けたじゃろうかというような毎日を最近まあ過ごしておるらしい。昨日は丁度店を扱われてから初めて奥様の方がお参りをしてきた。別にその詳しい内輪のお話をしなかったけれども、とにかくまあ、私共の同じ商売でもこういう商売はなかなか私どもに出来そうにもないと。
これは私どもに出来るだろうかと、自信を失ってきた。それにまあいうなら、まあ解り易ういうなら、社長さんであるところの女社長さん。女社長さんがまあガミガミ言われる。だからもうその、すこしへこたれ気味である。そこでとにかく御理解でも頂いてと思うて参りましたら、親先生の、私も控えておりましたからあちらへ、控えの方でお会いしました。で他の事もお取次ぎさして頂きよりましたから。
その方達に対する御理解を頂いたり、また自分の事をいろいろ話させて頂いたら、もうどうしてこのような事が、ほんにこんなに苦になっとったじゃろうかちいうような気になってきた。もうほんとに親先生にお会いしたら、あれこれも何もかにも話したところが、お話し頂いたうちに、合楽ちゃ不思議な所じゃあると。先生、また帰って元気に、これ今からどうにか頂けますと、こいう訳なんです。
第一お商売の性質上その電話がどうでも必要である。所が全然電話線の無い所だから、電話線がいつの事やら分からない。その為にもうお父さんはもう昼も夜も無い商売ですから、夜も無からなければ夜中も無い程本店の方まで電話を借りに行っては、お客様の用を足してやらなければならない。まあそういうもう煩わしさはあるのですので、電話だけはどうでもおかげ頂かなきゃとこう言うてお願いしていっておりました。
ところが今日その、高芝さんとあちらの会計さんと、三人で御礼参拝をしてみえられました。もう私どもんごたる信心無かもんでん、もうふがよかったって偶然ちゃ思われないことが起こりましたて。そういうような、その状態なもんですから、何かその電話あの、自分ところの電話からこちらの電話をどうかするとの、何か他の電話局からではないやつの、そのお話の出来れる設備が、やっぱり十万近くかかるらしい。
だからそうなっとんせじゃこてと言うので電気屋さんに工事を頼んで、正にその設備をしかかっとった。ところが今日電話局から電話掛かってきてから、急にその、あんたんところ付けてあげることになったち。どんなに考えても狐につままれたような話でしたけれども。ほら良かったですね奥さんち、店の方達が言いますけれども、とても良かったどころじゃ済まされん。とにかく私はもう今日御礼に出て行く。
出ると言うてからまあ御礼に出てきたと、こう言うのである。しかも先生その番号がああたもう、私のごと頭悪かってんいっぺんで覚えしまうごたる番号でございますと言うて。私も大体頭悪いっちゃけれども忘れられん位の番号だった。4・7・9・2(しなくに)という、その電話番号であった。もう神様のおかげを頂くということは、高芝のおっちゃまも言いよったがこういうことじゃろうかと思うて、まあ有り難いと、こう思うて御礼に出らして頂きました。
こちらの親先生にと言うて何かなんですかね、もう何か大変な高価な物だそうですが宗祇の、あの大島の紬のそれを仕立ててお供えさせて頂こうと思うたけれども、もうそれが来たからとりあえずこれ反物持って参りましたけれども、お気に入るじゃろうかと言うてそのお供え持って見えられました。その中にねお話をしておられるのです。昨日高芝さんのお母さんがこちらにお参りをした。
もうどうもこの頃イライラモヤモヤしとるようだから、私はね私もイライラモヤモヤしよった社長さんでっちゃも。従兄妹同士なもんですからやっぱりその、あれがない訳なんですね。ところがその、あんまりどうも雲行きが良くないから、おばさんあなたは最近合楽に参りなさらんから、ちっとはどうも人間がおかしゅうなっとるばい。とにかくもう私どんが留守番しとるけんで、あの参ってきなさいと言うて参らしたと。
そんな事は私は聞かなかった。昨日おとといは。まあそんな事で参ってきたらしいです。それでお店の方あの店員さん達を呼んで、その高芝さん達出来てない所のお掃除やらを、その帰ってくるまで一生懸命させて頂いてまでその待っとった。それが合楽から帰ってきてから、まあ今日はおかげ頂いたと言うて、まあ帰ってきてからこういう事を私に言いよるけん、どうしたこの人は馬鹿じゃろうかち私は思うたと。
こう言うて今日高芝さん毎日参られるもんですから。それがですね親先生あの帰りにもとおられた末吉の方へちょっと、あのあれから行ってないから帰りに寄らせて頂こうと思いますが、どうさせて頂きましょうかと言うて帰り際にお伺いになった。それで私はもう真っ直ぐ帰られたらよかろうと、こう申しましたから、帰ってからすぐ、今日はおかげ頂いたと言うて帰ってきて。
高芝さんがいうことが、今日は帰りがけに親先生に末吉に寄って行こうかと思ったけれど、お伺いさせて頂いたら、真っ直ぐ帰られたがよかろうと仰ったから真っ直ぐ帰ってきたつよ。私だんこげなこつまでお伺いするとよと言うて話した。ところが今までなら、よかったよかったと言いよった社長さんがそれを聞いてから腹ん立ってきた。もうこの人どんばっかりは、どうした馬鹿じゃろうかと思うたち。
いくら信心信心ち言うたっちゃ例えば自分の責任を持っておる、そのお店をですほうたらかしてそこの主人なり番頭さん達にお願いしてきておるならば、どうした無責任な事を言うだろうか。ちった馬鹿じゃなかじゃろうかと私は思うたおっちゃまと言うて、今日は又高柴さんが話しておられるのです。ね。けれども今ここで親先生のお話を頂きよってからです、成程人間の常識と言った様なものでは信心は判断できない。
人間の少し常識のある者ならばです、それだけの事をお店に頼んできてあるのだから真っ直ぐ帰るのが当たり前。それを途中に寄ったら良いでしょうかつっと帰ったら良いどころか、そげなお伺いそげな馬鹿なことばかりしてから、と信心の無い人は思うと。しかしほんとにそうですよね。けども高芝さんなまた自分がこげん神様任せになっとるばいち言うて所ば言う為にこげな事まで。
私だんお伺いしてからすると言うたけんでもうもうそん時、あんた馬鹿じゃなかのち言おうごとあったばってんけどグウグウ堪えとったら、今日先生のお話を頂いておって分かったとこう言うた。皆さんその意味が分かるでしょうか。馬鹿じゃなかじゃろうかとその綾部さんという方が思われた。高芝さんが私だんこげんな事までお伺いをして来るとよと言うたと、いうその信心のある者と、まあ無い者。
いや合楽で信心のほんとに稽古さして頂いておう者と頂いていない者の違いなんです。先生がただ今言われるね、金光様のご信心というのは超常識。だから私が高芝さん達のことを非常識と思うておったことをです。これは超常識であるということを今日分からして頂いて。はぁそうなればこそ、そうあればこそあれだけの仕事をしよったのにとにかく神様にお伺いをしてからというて。
自分の仕事は投げ打ってしまって親戚の方へ来られたのもです、そういう矢張り一つの素直さと言う様なものが、私の方の店に安心して頼まれる人達夫婦が来て貰った事じゃから、今日ここに来てお話を頂いてそれが分かったとこう言われる。ややこしくお話をしましたが分かったでしょうかね今の所が。おかげは受け徳受け勝ち。信心は御徳を受けた者が勝ちなんです。
だから御徳を受けるためにどの様に、例えば修行さして頂いてもどの様に逆たんぼううって、いうなら拝んでも参っても、それは御徳は受けられない。御徳を受けるという事は、勿論神様の御信用を負うことだと、久留米の初代が言うておられますように。なら御徳を受けるという事がね、神様の御信用を受けるという事であるならばです、どう言う様なあり方にならせて頂いたら神様に御信用が受けられるかということ。
それを私は今朝から初めてそこんところが分からして頂いた気がする。今朝の御理解の中に、最近金光大神の生きられ方という事が問題に、問題そのことがすでにお道の信心の教えだと。生きた教典だ。教祖様が歩かれた、生きられた生き姿そのものが金光教の教徒、信徒教徒がね、その事にならせて頂こうと精進する事なのだということである。そんなら教祖の神様は、このような場合どうなさったであろうか。
このような時にはどう教えておられるかということをです、教典を例えば私どもが丸暗記さして頂いて覚えさして頂いても、それだけではおかげを受けられないということである。これは教祖の神様ご自身も、ご自分でお気づきになっておったか、おられなかったか分からないということは生来、所謂生まれつき教祖の神様はです、そういう天地の神様の御信用を受けられるたちというかタイプでおありになったということ。
だからここんところから私どもは、まず究明していかなければいけない。教祖の神様っていう方はどういうようなお方であったか。それを私は今日、三つに分けてお話させて頂いた。第一素直でおありになった。体惜しみをなさらなかった。所謂実意丁寧のお方であったと。この三つがです、もう底抜けて素晴らしいお方であったというい事なんです。ですから、ところが私どもは、それこそ足元にも及びません。
実意さも、体惜しみをしないということもね、素直であるという事もとてもとても教祖の神様のそれとは比べ物にはならんのだけれどもです、そこのところを私どもがね、本気でより素直に、より体惜しみをせんで済む私達に、より実意にならせて頂こうと願わせて頂く精進がまず信心の基本、土台基礎にならなければならないのだということ。そういう姿勢がまず大事なのだと。
教祖様が素直でおありになったという事例は御伝記の中にどれだけか沢山出てきます。教祖様が、例えば体惜しみをなさらなかったという事は、もうほんとにびっくりする程である。実意丁寧でおありになったという事なんかは、もうほんとにこれが人間業であろうかと思うくらいである。水飲み百姓から身を起こされて、あれだけの、まあ村でも一・二といわれる程しの大きな百姓になっておられるというだけでも、その当時百年前の百姓の状態からいうて、もうとにかく不思議でたまらんのだと。
けれども、それほどしに身を粉にして働くというが、そういう働きがです、しかも素直に喜び一杯でお出来になられたという事実がね、これが事実がまあだその当時の村役場のそれに残っているわけ、役所に。例えば税金なら税金を、あの、お供えじゃない、税金納められる時です、例えばもう一俵なら一俵で良いものを、今年はよう出来たからというてから、また一俵かてておられますもんね。
もう実意丁寧の、それこそやはり馬鹿のごたるという感じですね。人が皆んな今日はお休みだからというて皆んな休んでいるのにですね、天道様が一生懸命働いてござるとに自分だけ休んじゃ勿体無か、相済まんちいうてからやはりお休みの日でも村普請に出ておられます。御養子にお出でになられてから、行ってすぐもう素直に、それこそそのまま自分の、例えば「私は麦飯が嫌いですから、麦飯は食べたくない」と、養母に十二歳の時に御養子になって行って、その事を一番口に言うておられます。
本当にいうならば、零細な水百姓の家でです、麦飯を食べないということは大変なことだろうけれども、また養父母もそれを非常に、麦をお米に換えてはその、教祖様が仰ることに、あがられるのを心配しておられるので記憶に残っておりますよ、はっきり。それからまた、私は神参りが好きだから、どうぞお休みの日だけは神参り、寺参りをする事をお許し下さいと言うて、養父母にも行った時に断っておられる。
その代わり只じゃ参らん。あの時分にまあだ若い方達は山に松葉掻きに行ったんだそうですね。それを瓦屋さんに買うてもろうて、それを何がしかの小遣い銭にされるわけですね。それ普通の人は二回しか山に行かないのを、教祖様は三回行っておられる。そしてその一回分だけを神参りの費用に、信心参りのお賽銭にそれをなさった。というほどにですね、もうただほんとに一百姓、私どもとひとつも変わりはない。
けど、変わっておるというなら、その素直さとか実意さと言った様なものがです、もういうならば、その実意丁寧の権化のような御方であったということ。この事だけでも天地の親神様の心はですね、その教祖様に向けられたということが当然のことのように思われます。ところが、なら、私どもにはその第一、実意丁寧がお道の信心の、いうなれば生命のように言われる実意さがどれほどあるだろうかと。
人よりも少しいくらかだけでも楽したいと言う様な心でです、とにかく体惜しみをしないといったような、この体惜しみをしないということは真心に通じる。真心とは体惜しみをせんことだと表現しておられます。体惜しみどころか、それこそ体を惜しんで自分を少しでも楽のところにおこうとする。素直さにおいては、なお然りである。ですから私どもが教祖の神様のそこのところにです、
足元にも寄らないほどしのことなのですけれども、その事が神様の心をとらえる。その事がね、天地の法則というか、天地の道理にぴったり合っておったということ。ですからここのところを私どもが頂こうと精進するところにお道の信心はある。高芝さんたちが、例えばそこんところをそういう意味合いで非常に、まあ誰よりも素直なものを持っておられると思うですね。けれども素直だけではいけない。
体惜しみをしないというところが大事である。実意丁寧であるということが大事である。そういうところをです、私どもが厳密に、もっともっと掘り下げて分からしてもろうてね、はあこここそ実意丁寧を表していくところだ、であろうか。こここそ自分は体惜しみをしておるところ、きついけれどもここで体惜しみをしては真心に欠けるというふうにです、自分の心に言い聞かせながら、それを行じていくうちにです、段々おかげを頂いていくのじゃないでしょうか。
段々それがいわば自分のもの、自分の身に付いていくのじゃないでしょうか。今朝私昼からある方が参ってきた時にお話したことでした。合楽の信心には皆桜の花のような人が多い。私が第一そうだった。ところが私は泣く泣くでも辛抱させられてです、いわゆる辛抱するという梅の花のようなものが段々身に付いてきた。素直さというのは、私は大体生まれつき馬鹿んごたっ所のありますもんねち言うてからお話した。
自分ながら馬鹿んごたるところの、はあこげんところが素直なところだろうと、こう自分で思う。「梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせたい」と言った様な、いわゆる合楽のおかげの世界とでも申しましょうか。華やかな桜のようなおかげと同時に、その内容として、梅の花の信心辛抱が、入っとらなければならんのであり、素直さが入っておらなければならんのである。
それが私には梅の花の信心は私のものではなかったけれども、余儀なく辛抱しいしいにさせられて、その信心辛抱の徳というか、有り難さというものがだんだん分かってきた。教祖の神様のそれに匹敵するならばです、とても足元にも寄らんのだけれども、教祖の神様の信心のその根本が、天地の親神様の御心がそこには動いたという元がです、その実意丁寧にあり、素直さにあり。
体惜しみをしないという、教祖のそういう素晴らしいものに、天地の親神様は目をつけられたのであるから、私共もそうあらして貰わなければならん、というところに根本的なものをもっていかなけばいけない。この前の月次祭にもう時間になったっちゃまだ、その奉仕着に着替え、あの服を変えていませんでしたから、私は悪う言うた。最近はもうほんとに信心は改まることだと心に肝に命じて感じておる。
だから今日はもう六時頃からほんとに、そのちゃんと袴履いてから。やはりあの御祭りといった時には、第一気分が大事ですもんね。ここから座っとってから、やはりまあだ仕事着だんにウロウロしよるとよりも、もうちゃんともう袴履いて、もういつでも、その出来るようにして、そのバタバタしておられるのを見ただけでも、あっ今日はお月次祭だという雰囲気が盛り上がってくる、お広前全体に。
そういう例えば、形の改まりの事でもです、今日は、この前はあのように注意を受けたから今日は、と思うて少し早めに用意をさせて頂いて、バタバタさせて頂いておったら自分の心の中から何かしら有り難いものが湧いてくると言うております。素直に言うことを聞くという事がです、神様がお喜び下さるのだから、神様のお喜びが末永建郎の心の上に働き掛けが始まるのは、もう当然なことなのです。
と言う様にはあ素直になるということはこのように楽しい事だということが分かる。実意丁寧でもそうです。実意丁寧にならせて頂くということが、このように自他共に有り難いことであるという事が分からして頂く。そこのところをです、私どもが根本的に頂かなければいけない。どういう素晴らしい、いわば教義を極めましても、その教祖の神様のお人となりと言った様なものがです。
そりゃもうこの様にはならんから、私だん真似は出来んと言わずにですそうあらせて頂く事に努める。手紙が来たならすぐそれに返事を出さなければならないものならば、すぐ返事を書こうという。もうよかよか明日にしよう明後日にしよう。しまいにはとうとうご無礼して出さんなりでしまえた。と言う様な事ではなくてね、そういう例えばそのだらしのない心がです、実意丁寧に行の上に表されていくと言う事がです。
例えばそういう人が手紙が来た、返事を書かなければならない、その場で返事を書いて出した。気持ちが良いそれが有り難い。それを神様が喜んで下さる。そういうようなものがです、例えば天地の親神様の御心に適うというのは、天地自然の法則に適うわけなのであります。その天地自然の法則に適わして頂くということがです、天地はもう限りなく私どもにおかげを下さろうと働きかけておられる。
人間氏子を真実幸せにしてやろうという働きかけがあっておる。天地の中にという、この地球上の上にです、生きとし生きるものの上にです、生かさねばやまんという働きがあっておる。私どものこの住まわして頂いとる地球上にはです、そういう天地の働きが、生きておるもの、もうこれは生きておるのだけではないでしょうね。すべての事にです、人間ならば、その人間氏子を真実幸せにせねばおかんという働き。
生きとし生きるものを生かさねばおかんという働き。そういう働きを天地の神様はいつもお持ちになっておられる。それを受けれるのはです、その天地の心と私どもの心が通うた時頂けれるのだ。いわゆる天地自然の法則に適うた時、神様の心に適うた時、おかげがそこから限りなく頂けれるのだと。その天地の法則ということを、今度御大祭の百十年の記念に小さいパンフレットを皆さんに差し上げるようにしております。
ですからここに見えられました、隅田先生の息子さんで科学者なんです。信州大学の教授をなさっておられる、いわゆる学者です。しかも科学者が、その、金光大神のあられ方というようなことをですね、科学的に、しかもそれが私どもに分かりやすく、その書いておられます。私その内容を半分ほど、読まして頂いたんですけれども、素晴らしい表現で書いておられます。
もう愈々成程教祖の神様の生きられ方というものがです、いかに素晴らしい事であったか。だからその素晴らしかった教祖様の生きられ方をです、私共の上にもそれを頂いていこうと精進する事こそが神様の心に適う事であり、天地の法則に適う事である。それが今日の御理解で言うと、天地の信用を受けて行く事である。天地の徳を受けて行く事である。それから受け徳、受け勝ち。信心は徳を受けた者が勝ちなのだ。
その徳を受けていくためには、人からそれこそ馬鹿じゃなかじゃろうかと言われる様な所がありましても、私どもはですそこには超常識と言う様なものを身に付けていきながらです、本気で教祖様の生きられ方。その生きられ方というその教祖のご信心の御内容です。それをまあ私は今日分かり易く言った事は、朝申しました事は、素直に実意丁寧に体惜しみをしないという、そう言う様な内容をです自分の内容にしていこうと努力するということがまず第一であるということ。
そこからおかげの受けられる道、そこから御徳が頂けていけれる、信心なのであります。そこんところを、おかげは受け徳、受け勝ちと教えられたのではなかろうかと思います。その教祖の神様がこの世に初めて、天地金乃神の、おかげを受けられるような、道を天地の親神様からお受けになられて、それを素直にひた受けに、受けられて今日の金光教が在るのでございます。そしてそれが百十年になっております。
本年はそういうお年柄であるために、皆さんもこの頃、ご参拝になりましたような、ご盛大な御祭りが御本部で開かれました。その御大祭をここの合楽教会でもです、その延長として立教百十年、教祖大祭が二十日に行われることになっております。ね。ですからそういう教祖の神様の御内容をです、一分でも一厘でも分からしてもらい、一分でも一厘でも自分のものにさして頂こうという精進をです。
本気でさせて頂くところからです、教祖様のお喜びを、もちろん神様の喜びが頂けれるものを自分で実感する。おかげで私がこういう素晴らしい道を分からして頂いて、この道を辿っていけば私でも御神徳を受けさして頂く事が出来るんだという見通しを付けさして頂いての教祖大祭であったならです、大変な意義の深い御祭りになるだろうと思うのです。ただお祭り騒ぎ的な御祭りに終わらんように。
教祖の神様の、いわゆるご性質というか、御内容というか、そのひとつでも自分のものに本気でしていこうと、私は精進するということは、例えば今日一日、いや少しばかりでもね、それをそういうことになろうと、そういう真似でもさして頂こうと思うただけで心に喜びを頂けれるのが信心です。そういう喜びを持って、この教祖の大祭を頂きたいと念願しております。
いよいよ明日は用意万端整いました上に、ちょうど月次祭と同時刻頃から前夜祭が行われます。前夜祭は皆さんもご承知のように、いわば合楽では大変大事に致します。というのはここでおかげを頂いておる先生方が御祭りを仕えます。あくる日の御大祭は、もう御祭主そのものが善導寺の親先生が御祭主を仕えて下さるのです。ですから私は副祭主の立場で御祭りを仕えます。
もちろん並んで下さる先生方も皆隣接教会の先生ばっかりなんです。いうなら、形はそれは素晴らしかってもです、内容は本当言うたら明日の前夜祭の方が、もうなんとも言えん有り難い御祭りになるのです。もう私は明日が前夜祭、もう御大祭が始まったという実感を持って御大祭を仕えますし、またあくる日は、その式典には出れない先生方が並んでの御祭りですから、いわゆる内々の御祭り。
しかも内々でのご準備も万事滞りなく終わりましたと言う様な報告をさせて頂く御祭り。ですからね、そういう意味合いで、ひとつ明日の前夜祭からもうしみじみとした教祖の神様のあられ方を自分の心に感じれるような信心をね頂いて、そしてあくる日に仕えられるところの教祖大祭を頂いたらそりゃ有り難いことになるだろうと思うのです。どうぞひとつ前夜祭にも沢山お参りを頂きますようにお願い致します。
どうぞ。